CLANNAD AFTER STORY 第18回

朋也が汐に話しかける時の姿勢が、段々と子供目線になっていくという視覚的演出が、朋也の心境の変化を如実に表していて良いですね。

あと、汐が宿でトイレに行くと言った時、「泣いていいのはトイレ」という汐の言葉を思い出し、朋也がギョッとするシーンとか。





今回、朋也の祖母・史乃が登場した事は、父・直幸の話を朋也に聞かせるという事の他に、直幸にも(朋也が早苗さんに押し付けてしまったのと同様に)、自分の子供の養育を、自分の母にやってもらうという選択肢が有ったけれども、そのある意味安易な逃げを選択せずに、自分の手元で何とか育てるという選択肢を選んだという事実の提示でもあったのでしょう。

その点(逃げ出さなかった事)について言えば、間違いなく朋也よりも直幸の方が偉かった。

史乃が言うように、「人間としてはダメな人間」になってしまいましたが、それでもやはり、あの大地の果てで、「この子だけは自分が育てる」と決意した事は、間違いなく偉かったのだと思います。

重ね重ね言いますが、「人間としてはダメな人間」になってしまったとは思いますが。
(酔って暴れてはダメですし、ヤバイ物に手を出してお縄になるに至っては論外でしょう)





私は、自分の経験なども踏まえて、「人は少なくとも三度死ぬ」と考えています。

一度目は、生物としての死。

二度目は、故人と近しい者が、故人の死を受け入れることによる、残された者の意識の中での死。

三度目は、故人を知るものが全て亡くなり、故人の在りし日の記憶が全て失われる、記憶としての死。



「残された者が泣けるのは、“二度目の死”の時なのではないだろうか?」と思うわけです。

一度目の死、その人が亡くなったという事実だけでは、直ちには泣けない。所詮人間は、自分のためにしか泣くことのできない存在ですから。

もちろん、死の事実を突きつけられて泣けてきてしまう方もいるでしょうが、それは、“一度目の死”と“二度目の死”が、ほとんど同時にやって来たという事なのではないかと思うのです。


上座部仏教(小乗仏教)における葬儀においては、僧侶は死者に背を向け、残された生者に向かって読経する、という話を聞いたことがあります。

これが意味するところは、葬儀とは“二度目の死”を迎えるための、生者のための儀式なのだということなのだと思います。

実際、私も目の前の景色が滲むのは、故人が亡くなった時ではなく、出棺する時に及んでであることが多いですし。
おそらく、亡くなって直ぐでは、心の受け入れ態勢ができていないのでしょう。



そういった考えを踏まえてみると、『CLANNAD』という物語は、“二度目の死”を描いた物語なのかな、と思えてきます。

“一度目の死”を描くゲームは山ほどありますが、“二度目の死”を描くゲームというのは珍しいような気がします。




【〆】

アッキー、駒田は分かり難い。
教えるならせめて、クロマティとか淡口とかもっと強烈な個性のある打撃フォームのバッターの物真似を伝授してください。

……いや、今では古すぎてもっと分かり難いか?
では、種田で。

テーマ : CLANNAD -AFTER STORY-
ジャンル : アニメ・コミック

2009-02-14 : 徒然(アニメ・漫画2009) : コメント : 0 : トラックバック : 0
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